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東山彰良のTurn! Turn! Turn! #5 室見(福岡) 時が塗り替えた灰色の時代【動画有】

文・東山彰良 写真・河合真人
【動画】作家・東山彰良さん 少年時代の街をゆく=佐々木亮撮影

 8月の油照りの午後、素魚(しろうお)で有名な室見(福岡市早良区)を歩いてみた。じつは、室見には小学3年生から大学院を出るまで暮らしていた。私が小学3年生と言えば1977年で、いまだ地下鉄はなく、市内を路面電車がのんびり走っていた。

 はじめの数年間、私たち一家は父が勤務する大学の教員宿舎に住んでいた。それは灰色の陰鬱(いんうつ)な集合住宅で、雑草の生い茂る空き地が目の前にあった。私たちはよくそこで野球をしたが、たまさか大きな当たりが出ると、胸くらいまである雑草のなかへボールが消えてしまう。ほとんどの場合、二度と見つからなかった。そんなときは、つぎに誰のボールを使うかでもめた。ごくたまに、ずっとむかしに失くしたボールがひょっこり出てくることもあった。

 中学へ上がるとき、両親は私に中学受験をさせた。家庭教師までつけてくれたのだが、私にはその意味がさっぱりわからなかった。誰もが入れる中学が家の近所にあるのに、どうしてわざわざそんな堅苦しそうな学校へ行かねばならないのか?

室見川。遠くに福岡タワーが見えた

 案の定、私は受験に失敗し、地元の公立中学へ進んだ。いやはや、なんとも荒れ果てた学校だった。先輩たちはほとんどが不良で、なにが気にくわないのか、しょっちゅう教師をいたぶっていた。ある朝、登校すると学校中が騒然としていた。怒り心頭の先輩たちが廊下にあふれ、ひとりの教師を吊し上げろとわめいていた。野次馬(やじうま)に話を聞けば、その先生がある先輩のリーゼント頭を鉛筆の先でつついたことに端を発しているようだった。私たちは、そんなことをするなんて先生は自業自得で、多少痛い目を見るのも致し方がないと思った。まあ、当時としてはさほど珍しい話でもない。

 私はバスケットボール部に入ったのだが、そこもやはり不良だらけだった。先輩たちは部室で煙草を吸い、ラジカセでキャロルやクールスを聴きながらぶいぶい言わせていた。弱そうな同級生を部室に連れこみ、私たち下級生に彼らを殴らせたこともある。先輩同士の喧嘩ともなるとビール瓶をたたき割り(いったいどこから持ってきたんだ?)、血走った目で「やってやる!」などとわめく始末だった。とりわけ悲惨なのがひとりいて、気晴らしに私たちを殴るのは当たり前で、たのまれもしないのに女性器の呼び方をしつこく教えようとしたり、聞くに堪えない卑語を連発したりして悦に入っているような、正真正銘の負け犬だった。

かつて住んでいた教員宿舎の前に立つ東山彰良さん

 かつて住んでいた教員宿舎はいまも健在で、外壁が白く塗り直されていた。私たちがボールをなくした空き地には、立派な建物が立っていた。

 とてつもなく暑い日だった。満身大汗で小学校、中学校時代の通学路をふうふう言いながら歩いてみたが、夏休みということもあって、どこにも不良たちの姿はなかった。蜃気楼(しんきろう)のなかにすらいなかった。時代はもはや彼らを必要とせず、彼らももうなにも生み出さないのかもしれない。金屑(かなくず)川に誰かの落としていったビーチボールがぷかぷか浮かんでいた。

 それから、室見川へ行ってみた。

 ちょうど干潮の時間で、河口付近にはあまり水がなかった。むかしからそれほど汚い川ではなかったけれど、その日は川に入ってシジミを獲っている人たちがぽつぽついた。その昔、私はよくこの川べりを自転車で走りまわっていた。ベンチに腰掛けてぼんやり川面を眺めているだけで、不良にからまれたこともある。なよなよした不良で、私にぶっ飛ばされてへいこらしていた。

 ビーチサンダルを脱ぎ、川に入ってみる。水はくるぶしくらいまでしかなく、風呂のように熱かった。考えてみれば、不思議な気もする。子供のころは川に入ろうと思ったことすらないのに、大人になってから川水を蹴り上げてみたいという衝動に駆られるなんて。

当時を思い出すように室見川へ。照りつける太陽で水は生ぬるかった

 たぶん、過日への憧憬(しょうけい)を私たちはそうやって指先に感じるのだ。不良だらけだったこの校区を、私はちっとも気に入っていない。それでも、私はここで少年時代を過ごした。そして今、私は川のなかで不良たちを懐かしく思い出している。まるで戦争中に青春時代を過ごした人が、昔の苦労を懐かしむように。

 件の負け犬先輩でさえ懐かしい。路地でばったり出くわせば、いつだって公序良俗に反する行為を持ち掛けられたものだ。彼がほかの先輩にぶちのめされたとき、私もその場にいた。喧嘩の理由は知らないが、遅かれ早かれそうなることはみんなわかっていた。彼は、一発蹴飛ばされては罵詈(ばり)雑言を吐き散らして逃げまわり、すぐに追いつかれてはまた蹴られ、泣きを入れたあともまだえんえんと蹴飛ばされていた。私としては、ああ、神様はちゃんと見てるんだな、と思わずにはいられなかった。ずっとあとになって、彼が更生していまは立派な板前になっていることを風のうわさで聞いたときには、びっくり仰天して開いた口がふさがらなかった。しかし、驚くにはあたらない。ボブ・ディランだって歌っているではないか。

 For the loser now
 Will be later to win
 For the times they are a-changin’

 「今は負け犬でも/やがて勝者になるのかもしれない/だって時代は変わっていくのだから」(「時代は変る」)

 私たちの目に映るのは、そう、いつだって変わりゆく時代の後ろ姿だけなのだ。=朝日新聞2019年8月17日掲載