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東山彰良のTurn! Turn! Turn! #7 広島 川のほとりで、父が聴いた歌は【動画有】

文:東山彰良 写真:河合真人
来日して初めて暮らした広島の街を再訪する東山彰良さん=佐々木亮撮影

 天高く馬肥ゆる秋に、広島は太田川と元安川のほとりを漫(そぞ)ろ歩いてみた。広島は私が台湾から日本に越してきて、はじめて暮らした街である。それは1974年のことで、私はもうすぐ6歳になろうとしていた。

 広島の情景はいやに鮮明で、驚くほどみずみずしい。私は毎日、元安川沿いをてくてく歩いて千田保育園にかよった。保育園にはあっくんというならず者がいて、かおりちゃんという可愛い子がいた。おやつの時間に出される、台湾では見たことも聞いたこともないプロセスチーズの不味(まず)さに度肝を抜かれた。腐っているとしか思えなかった(まあ、ある意味でそれは正しいのだけれど)。人間の食い物とは思えないその腐ったしろものを日本のガキどもが喜んで食べていたのには、不可解をとおり越して絶望すら感じた。一度こっそりゴミ箱に捨てたら、應谷先生に見つかって大目玉を食らった。

 気怠(けだる)い昼下がりにその園を訪ねたところ、先生方が快く迎え入れてくださった。私が在園していたころの写真や卒園者名簿まで見せていただいた。色褪(いろあ)せたその白黒写真のなかで、私はカメラをぐっとにらみつけている。不貞腐(ふてくさ)れているように見える。もしかすると、チーズを食わされたあとだったのかもしれない。それにしても随分長く通っていたような気がしていたが、たったの7カ月で卒園していたことを知ってびっくり仰天してしまった。それよりもっと驚いたのは、應谷先生がいまだ現役だということだった。残念ながらその日は休みを取られていて、45年ぶりの再会とは相成らなかったが。

千田保育園には当時の写真、名簿が保存されていた。右端でふてくされた表情で写る東山少年を浮き上がらせた=広島市中区千田町

 園への送り迎えは、父と母が交代でしていたように思う。川を横目に見ながら、母は日本語でお金の数え方を教えてくれた。じゅうえん、ひゃくえん……その音の響きが斬新で滑稽で、私と妹はゲラゲラ笑ったものだ。父は自転車に乗って迎えに来たので、私と妹はかわりばんこで荷台に乗せてもらった。そのころ父は広島大学中国哲学学科の博士課程の学生で、私たちは大学からほど近い住吉町にある「たちばな荘」という小さなアパートで暮らしていた。1975年に台湾で出版された王璇(ワンシュエン)の『橘屋的書』(幼獅期刊叢書)に当時のことが書かれている。「橘屋(ジュウウ)」とはすなわち「たちばな荘」のことで、王璇は父のペンネームである。

 僕が3年前に文化会館を出て、たちばな荘を借りた理由は、学校に近いのと家賃が安いのと、それからたちばな荘のそばを流れるあの川のためだ。明治橋の下を流れる太田川(著者註・正しくは元安川)は汚染された魚しか泳いでないけれど、岸辺の柳と朝な夕なに海水が流れこむ河水の変化は、僕の味気ない生活にとって一服の清涼剤だった

 その後、私たち一家は桂アパートというところへ引っ越す。『橘屋的書』によれば、〈たちばな荘の裏にビルが建って陽当(ひあ)たりが悪くなり、唯一の窓が開けられなくなってしまったことと、トイレが雨漏りするようになった〉ためである。

 かつてたちばな荘があったと思(おぼ)しき場所に立ってみても、さしたる感慨は湧かなかった。それよりも桂アパートのほうだ。私はそこで猫とカブトムシを飼った。猫は有能で、ネズミや鳩(はと)をよく捕った。カブトムシは私に遊び殺されてしまった。お隣は韓国人で、お向かいにはインド人がふたり住んでいた。インド人たちの家にはテレビがなく、毎週金曜日の夜八時になると、我が家に「ワールドプロレスリング」を見にやって来た。もちろんタイガー・ジェット・シンを応援するために。桂アパートはいまや立派なマンションに建て替わっていたけれど、そのマンションに当時をしのばせる名前がついていたのは愉快だった。

鷹野橋商店街。子供の頃通った玩具店が残っていた=広島市中区大手町

 かつて暮らした界隈(かいわい)をぶらぶら歩きながら、なんとなく当時の父の鬱屈(うっくつ)が理解できるような気がした。まだ学位も取れず、やかましい子供をふたりも抱え、トイレが雨漏りするようなボロアパートで暮らしていれば、そりゃ川でも眺めて自分を慰めたり、本でも書こうという気になるじゃないか。かく言う私も、まったくおなじだった。20年前の私は学位の取得が見込めず、生活の目途もたたず、ふたりの子供を抱えてにっちもさっちもいかなかった。人生がこんなにも厄介なものだと気づいて愕然(がくぜん)としていた。だから、私は小説を書きはじめた。

 ところで、私はブルースが好きなのだが、父も『橘屋的書』のなかでラングストン・ヒューズという黒人の詩を紹介している。

わたしは川を知っている:
わたしは知っている、世界とおなじくらい古くて 人類の動脈を流れる血よりも老齢な川のことを
わたしの魂は川のように深まりゆく
 Langston Hughes “The Negro Speaks of Rivers”

 このあと詩のなかの「わたし」は、アフリカの名だたる川たちへの憧憬(しょうけい)を胸に抱きつつ、エイブラハム・リンカーンがニューオーリンズを訪れたときにミシシッピ川の歌を聴く。

 ああ、なんというブルースだろう!

 悠久なる大河はアフリカを流れ、アメリカを流れ、広島を流れ、そして福岡にも流れている。長さや広さや知名度は関係ない。川が目撃してきた歴史は、たぶん、すべての川に共有されている。だからこそ「人類の動脈を流れる血よりも老齢な川」のことを、私たちは知ることができるのだ。ヒューズがミシシッピ川のほとりで聴いた歌を、父は元安川のほとりで聴いていたのかもしれない。=朝日新聞2019年10月19日掲載

旧太田川のほとりに立つ東山彰良さん。後方は住吉橋=広島市中区住吉町